Beautiful Legs Text
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| 1 美の典型・・美しい脚について 人体の美にも、いろいろあるが、脚に対して、特に魅力を感じる人は多いようである。脚は、体の部位だから、通常は自ら見慣れているところである。そこに美を感じるのは、何か深い理由があるに違いない。 たんに女性らしいラインだと、甘すぎて、凛としたところがない。筋肉質な男性の脚では、論外であろう。もっとも、筋肉隆々を美しいと感じる感性は、それはまた別の感性である。 脚の理想は、各人の夢の中にあるのかもしれないが、具体的な形に示すなら、それは絵画であり、彫塑の中に見ることができる。 その少ない可視的な理想像を、ここにあげてみようか。 ベルニーニ作「アポロンとダフネ」。 作者不詳ながら、地中海から出土された「アフロデティア」も、美しい。 アフロデティアの台座には、こう記されている。 人体の美の極致。脛は少年、太ももは少女。でん部後方は少女で、前方は少年。腰は少女、背中は少年、云々。これが美の典型とある。 であるならば、男性で、太ももとでん部が少女的、女性で脛や背中が少年的であるならば、アフロデティアの遠い末裔といってもよいのであろうか。いや、そうではないだろう。おそらく、人種・性別・年齢をも超えた、一種の「美」の感じではなかろうか。確信的な情緒とも言えるだろう。 2 美しい脚に似合う着衣 これは言うまでもないことだが、スカートと呼ばれる、布製の衣服がもっともよいようである。特に、ミニスカート(膝上までの短いタイプのもの)が、外部に脚部が出る面積が多いだけに、脚の美しさを素直に出せると思う。このサイトの画像のほとんどを、ミニスカートで撮っているのは、こういう理由からである。もっとも、脚のラインを確認するだけなら、ショートパンツ(半ズボンの丈の短いもの)で十分だろう。 脚部の強調という点からは、水着や全裸などは論外のことである。脚以外の体の部分は隠しておく方が、脚の美の鑑賞には、適していると思う。 ではスカートは、どのような形状がいいだろうか。人それぞれの好み好みもあろうから、断定はできないが、布は柔らかさを持って最高とする。であるなら、風に翻るようない素材で、その材質を生かすデザインがよいことになる。 簡単に言えば、裾のやや広がった軽やかな感じのするミニスカートが脚の鑑賞には、よいと思う。 いわゆる風にひらひらするから、ひらミニスカート。フレアスカート。プリーツスカート。色々と種類はあるだろうが、まあ、そんなところである。それは思うに、ギリシャローマからの、服装の伝統にもそっていることだろう。 3 美しい脚であることと美しい脚にすること、それを保つこと きれいな脚は、遺伝形質によるところが大きい。これは、身体の他の部位と同じことである。子は親に似ている。親は祖父母に似ているだろう。 しかし、生まれつきの脚の形質も、その後の生活で、様々に変化する。この変化は、偶然によることもあるし、意志の力によることもある。 生まれつきの体型も、その後の生活習慣で変わる可能性が大きいわけである。 誰でも、10代のはじめ頃から、自分の身体を強く意識するようになる。少年期は身体の変化が激しいので、その変化に意識がついて行かなくて、とまどうこともある。他の同年代の子どもと自分との違いを感じて悩んだり、たわいもない優越感を感じたりする頃でもある。 一般的に、顔以外の身体の部位は、所与のものとして受け止めることが多い。 偶然にきれいな脚の持ち主は、きれいな脚で当然と思っている。その個人にとっては、生まれつきで自然なことだから、あまり意識しない。ありがたみを感じない。 脚に限らず、自分の身体の部位に満足していないか、大いに不満がある場合、自分で変化させようと努力することが多い。その結果、望ましい変化をすることもあるし、それほどでもないこともある。 脚の美は、相対的には、長持ちのする美である。美しいかどうかの判断力は、10才頃から、活発になってくる。 その美意識はその後もずっと続くことになるが、現実の脚は、鑑賞に堪え得るものとして、どのくらい持続するのだろうか。 年月による成長または劣化には、一般的な法則があるのだろうか。 これは個人によって違うとしか言いようがないのだが、しかし、一般的な経験事実としての傾向があり、そこから極端に、はみ出すことは、ないだろう。何事も、時間には勝てない。 それは、ハーブを育ててみて、実感している。大ぶりの見事なラベンダーも、何年かすれば、必ず更新しなければならない。そして、更新後の若いラベンダーの方が、更新前の大枝よりも、決まって美しいのである。 年月を経た大樹は美しいものだが、ハーブに関しては、違う。脚もまたそうかもしれない。 4 風景としての女性のショートパンツ ショートパンツが、服装アイテムとして認められてきたことは、目新しいことではない。ずっと以前から、見事にショートパンツを着こなしている女性の例はたくさんある。 しかし、この数年は、多くの女性が、ショートパンツを定番の服として取り入れるようになってきた。 その遠因は、もちろんパリコレにある。 日本のファッション事情は、乱暴に言ってしまうと、すべてパリから来ているのではなかろうか。パリにさえ注目していれば、日本の流行の、数ヶ月後、または1年後くらいまでの予想は立つ。 今のところ、日本発で、世界のファッションの動向を左右させるほどのトレンドはまだないようである。やはり、パリという街は魔物である。ファッション産業は、工業でもあり、農業でもあり、文化なのだろう。 ともかく、パリでシャネルがショートパンツを取り入れた影響で、かなりの時間差をおいて、日本にも、ブームがやってきた。 ショートパンツは、脚を選ぶ。似合わなければ、そもそもショートパンツを、はく気にならないのではなかろうか。あれだけ脚をむき出しにするのだから、かなりの気合いも、必要だろう。 スカートは、脚とのバランスの面では、ストライクゾーンが広い。ショートパンツはそうはいかない。裾のふくらみや丈の長さをどんなに変えたところで、それはパンツに過ぎない。そこから、どんとはみ出した脚は、外部へ、無防備に近い状態で放り出され、良くも悪くも、ありのままが判断されてしまう。脚線は、シビアな舞台へ出されることになる。 にもかかわらず、ショートパンツがこれほど普及したことは、 「美意識が変化した」「環境破壊も平気になった」というような、壊滅的な判断もあるのだが、おそらく、 「雑誌や販売店側の作戦の勝利」「デニムの浸透」「体位の向上(特に、女性の脚が以前よりもきれいになった)」「肌を出すことに抵抗がなくなった」といったところではなかろうか で、ここで思うには、やはりショートパンツの脚というものには、むき出しの脚、脚線の強調はあるが、思うほどに美的な感動がない(タナトス・エロスの語義での「エロス」がない)のではなかろうか、ということである。 私の知人のひとりは、女性のショートパンツは下品だといった。 ショートパンツ肯定派としては、賛同できかねるが、そういわれてみると、なんだか図々しい代物である、と言えなくもない。これでもか、と、見せつける意欲を感じるのだが、その中味に圧倒的な美のパワーがあればこそ、それほどの力がない場合は、相手に感動を与えることはできない。だからこそ、ショートパンツは、浸透したとも言える。 簡単に言えば、美しいかどうか微妙な脚の、ショートパンツ姿が溢れることによって、それは、ありきたりな風景の一部となり、だからこそ、空気のような存在として、当然の姿になってきたのだろう。つまりは、開放的で、健康的だ、と言うことになるのだろうか。 とにかく、美脚の強調からは、これに勝る物はないはずなのだが、スカートほどには感じない、感じさせない、というのが、ショートパンツの本来の役目なのかもしれない。 5 美脚ばかり見ていると 作家のY某が、かつて銀座華やかな頃、編集者のおごりで、あの店この店と渡り歩いた。 そのあげくの感想である→「銀座の店ばかりで飲んでいると、世間の女性も銀座の女程度の容姿なんだと、思うようになってしまって、困った」。 だれでもが、銀座の売れっ子ホステス並みの容貌をもっているわけではないのだが、その中にどっぷり浸かると、だんだん慣れっこになってくるのだろう。 トップモデルばかり見続けていると、世間の女性は、みんなモデル並みの容姿が当然と思うようになり、そうでないのは目に入らなくなる @@;、というようなことも、あり得るのだろうか。 美しい脚もそうで、美しいのが当然と思うようになってくるのだろうか。ちょっと、考えさせられたことなので、書いておく。 6 勘違い 人の容姿容貌に対しては、あまり判断に迷うことがないのが通常であろう。しかし、脚については、いい加減な判断が横行しているようだ。 きれいな脚、美しい脚、これはそう簡単なものではない。 「美脚」という軽薄な言葉が一般化するにしたがって、誰でもが、他人を評して簡単に「美脚だ」などと言ってよいような雰囲気が醸成された。 ファッションは常に大多数の人間に有利に働く。そして、大多数はそれほど美しくはない、と、少なくともファッションに関係する当事者は考えるだろう。また、消費者の欲望も限りがない。 私は、美脚という言葉に非常に抵抗を感じていたが、その氾濫には抵抗できず、ついには自分でも「美脚」と言ってしまう始末である。しかしそれでもなお、私はこの言葉を、人の自然に持っているはずの「美」の判断力を、弱めた大きな原因として、ほとんど、憎んでいる。 「美脚」とは、「美しくない」脚を指すことば、と言ってもいいくらいである。 美しい脚は、そう簡単にお目にかかれるはずはない。しかし、「美脚」の一般化及び、そこからくるレベルの低下によって、美しい脚の判断基準は限りなく下がってきた。 これと似たようなことばに、「かわいい」というのがある。本来指す字義よりも著しく内容を低下させた。低下させた方が、一部の、または多くの人には、限りなく有利であり、都合がよいからかもしれない。 |